クワクボリョウタ『10番目の感傷(点・線・面)』
太田 晶
1.はじめに
本稿では、2011年10月4日から12月11日まで国立国際美術館で開催されていた特別展「世界制作の方法」における展示作品、クワクボリョウタの『10番目の感傷(点・線・面)』を取り上げる。
本作品は、2010年にクワクボリョウタによって制作されたインスタレーション作品である。クワクボリョウタは1971年栃木県に生まれ、筑波大学大学院修士課程デザイン研究科総合造形コースを修了後、国際情報科学アカデミー[IAMAS]アート・アンド・ラボ科を卒業し、1998年から主にエレクトロニクスを用いて、アナログとデジタル、人間と機械、情報の送り手と受け手など、さまざまな境界線上で生じる関係性をテーマにした作品を発表してきた。
純粋に体験を提供するための装置ではなく、道具として体験者を関係づけようとする指向性は「デバイス・アート」とも呼ばれる独自のスタイルを生み出した。
本作品は、2010年の文化庁メディア芸術祭に出品されたもので、その際にアート部門で優秀賞を受賞している。
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2.作品について
本作品は、光源が取り付けられた鉄道模型がレール上を走行しながら、レールの周囲に配された物体に光を照射し、その影を壁面に映し出す影絵を用いたインスタレーション作品である。
影絵は、光源と、光源からの光が照射されるスクリーンとの間に、光に照らされることによって影の元となる物体(本稿では「被影体」と称す。)を設置することによって生成される。光源から放たれた光は、被影体およびスクリーンに照射され、スクリーンには被影体の影が映写される。
このことは、障子や壁に手でキツネやイヌの形状をした影を映した昔ながらの手遊びによる影絵の原理を考えれば分かりやすく、例えば走馬灯などの回転灯籠、近年ではプロジェクタなども影絵と同様の原理を用いている。
影絵遊び、回転灯籠およびプロジェクタにおいて光源は固定されており、動的な影絵を生成する場合には、光源とスクリーンとの間に介在する被影体の形状を動かして変化させる。つまり、昔ながらの影絵遊びでは、例えば小指を動かすことによってイヌの口を開閉させており、また回転灯籠では、被影体を回転させることによって影を動的なものとしている。
本作品も動的な影絵の部類に属するが、上記従来の動的影絵の生成メカニズムとは決定的に相違する点を有している。すなわち、従来型の「固定光源―動的被影体」という生成メカニズムに対し、本作品は「動的光源―固定被影体」という生成メカニズムを有しており、本作品の大きな特徴の一つがここにあると言える。これにより、ホワイトキューブの壁面に臨場感溢 るダイナミックな影絵が映し出されこととなる。
変わりゆくシルエットの変遷が映し出されるその空間は、まるで列車の車窓から外の風景を眺めているかのような感覚になる。
しかしながら、作品を構成しているものは、洗濯バサミ、ザル、電球、金属製のくずカゴ、鉛筆といったレディメイドであり、光を照射している鉄道模型も、影が映し出されるホワイトキューブの壁面もレディメイドである。
つまり、すべてがレディメイドで、それらの品々を組み合わせて構成することにより、そのシルエットを実物の風景に見立てている。
そういった意味で、本作品はだまし絵やトロンプルイユという要素を多分に含んでいる。
とりわけ、果物や野菜、魚などを組み合わせて人物の顔を構成した、ジュゼッペ・アルチンボルドによる肖像画<四季>シリーズや<四大元素>シリーズ等と非常に高い共通性を有していると指摘することができる。
3.影絵について
影絵という作品を考察するにあたって、同じ「影」という要素を有するフォトグラムと比較しながらの考察を試みたい。
フォトグラムは、光源と、光が照射される感光紙との間に物体を配し、その物体の影を感光紙に転写するというプロセスによって制作される。
物体に光を照射することによって生成される影を作品とするという点では、フォトグラムと影絵とは全く同質のものである。
しかしながら、フォトグラムと影絵とにおいて、決定的に異なる点が一つ存在する。
それは、フォトグラムにおける影はロザリンド・クラウスが指摘しているように「かつて、そこにあった。」という指標性の痕跡であるのに対し、影絵におけるそれは「いま、ここにある。」という現前性の形態なのである。
ホワイトキューヴに展示されたフォトグラムという作品は、その作品全体として鑑賞者に対して<いま ここ>的という言葉で表されるアウラを放つ。
しかしながら、その作品の中に存在する影という痕跡自体は、あくまでも「かつて、そこにあった」という指標的なものであり、ベンヤミンの<いま―ここ>的という考えに従うならば、フォトグラムにおける影という痕跡自体がアウラを放つことはない。
なぜなら、その影を生成した光は<いま―ここ>には存在せず、また被影体としての物体も<いま―ここ>には存在せず、そこにあるのは、かつてそこに影があったことを指し示す痕跡のみだからである。つまり、生身の影自体はそこには現前していないのである。
それに対して、影絵における影は、まさしく「いま、ここにある」ものであり、その影自体が<いま―ここ>的にアウラを放つのである。
その一方で、影絵は絵画作品や彫刻作品のように定常的なフォルムを有しておらず、次々にその形態を変化させていく。
したがって、影絵という作品は無常的なアウラを放つのである。
本作品を鑑賞して、刹那的な儚さやノスタルジックな感覚を覚えたのであれば、それは変わりゆくシルエットが放つ、アウラの無常的な特性によるところが大きいのかもしれない。
また、フォトグラムは空間芸術であるのに対し、影絵は空間芸術でもあり、かつ時間芸術でもある。
つまり影絵は、そこに影が存在するという現前性と、時間的・空間的に変遷していくという演劇性とを有している。
これらの性質はマイケル・フリードが指摘したミニマル・アートが有する特質であり、これらの点において影絵はミニマル・アートと共通の特質を有していると言える。
4.作品解釈
つぎに、『10番目の感傷(点・線・面)』というタイトルの意味について考察したい。
はじめに、「(点・線・面)」についてであるが、NTT Inter Communication Centerのホームページにおいて次のような説明が掲載されている。
この作品で投影される影は、改造された鉄道模型に搭載されたLED照明による光源から生み出されています。
この光源は点光源と呼ばれ、光源から光が放射状に広がり、それによってできる影も放射状に投影されます。
そのような環境では、「もの」と光源の位置関係が近ければ影は大きくなり、遠ければ小さくなります。
この作品を形成している要素は、物質的には鉄道模型と線路のそばに置かれた「もの」だと言えますが、さらには光源としての点であり、その点の移動の軌跡としての線であり、「もの」の断面としての面だと言えます。
また、線によって移動する点が、面としての影を動かしています。
クワクボはインタヴューで、「『ものの道理』を理解したうえで、面白いと思ってもらえる作品をつくりたい。」と述べており、影絵という理解容易な原理に加えて、この作品は点、線、面という三つの空間的要素から成り立っているということを鑑賞者に対して明言したかったのであろう。
そのために、このようなカッコ書きをタイトルに付加したのだと考えられる。
では、「10番目の感傷」とはどのような意味なのであろうか。
この作品では、通過領域によって光を照射する方向を変えて選択的に被影体に光が照射されている。
また、その被影体もその形状が選択され、その位置、配列順序などが選択的に決定されている。いわば本作品は、クワクボ氏の手によって無数の影がモンタージュされた映画作品なのである。
本作品を映画作品と捉えて、この映画のストーリーを追いながら、本作品タイトルについての考察を試みる。
始点から動き出した列車の光が最初に照らすのは人間である。
それによって壁面に生成される人の影、それはまさに洞窟の壁に浮かび上がる、あのプラトンの影像である。まさしくそれは古代である。
そして、巨石文明を思わせるような影、ローマ帝国が建造した水道橋に見立てた影や、産業革命後の連立する工場の煙突を想起させる影などが映し出された後、既に映し出された多種の影が重なり合うように壁面に映し出される。
積層されていく過去、その重層性は蓄積されていく人類の叡智を表象しているかのように感じられる。
そして、人類の終着点の影として、都会のビル群が映し出される。まさしくそれは現代である。
そして1番目の駅としてプラトンの影像から始まって、10番目の駅である現代という終着駅に列車が到着すると、光源の光が消えて列車は停止する。
そして一瞬の静寂の後、再び光源が点灯して列車は逆走を開始する。
列車は過去に照らしてきた物体に再び光を照射しながら今まで辿ってきたレールを高速で駆け抜けて始点へと戻る。
本作品は、始点と終点が同一となるように環状にレールが敷かれているのではなく、始点と終点は異なる位置にもうけられ、終点に到着した列車は、今まで辿ってきたレールを逆走して始点まで戻る。
それはUターンでもなく、Iターンでもない。一見Iターンのようにも思えるが、始点から終点までに至る時のスピードに比較して、終点から始点へと戻る時のスピードは格段に速く、そのときに映し出される影像は、まるで死を前にして走馬灯のように過去の出来事がフラッシュバックとして脳裏に浮かび上がってきているかのようである。
したがって、列車の逆走は、Iターンと捉えるのではなく「リセット」という概念で捉えるのが相応しい。
人類は古代から中世、近世と経て現代まで辿り着いたわけだが、現代という終点には、「死」という名前の駅が待っていた。
しかも、その「死」は新たな生命として生まれ変わる輪廻転生という環状体系における死ではなく、ゲーム機のリセットボタンを押しさえすれば、人生を一から再開できるかのような錯覚に陥り、自ら命を絶ってしまうというリセット型の死である。
静寂した空間で、光によって映し出される影の変わりゆくさまをただじっと眺める。
その鑑賞体験は非常に美しいものである。
しかしながら、その鑑賞体験が美しいものであればあるほど、鉄道模型が終着駅に到達した時に、走馬灯のようにフラッシュバックが生じ、「リセット」という自殺行為のメタファを感じ取った瞬間、背筋が凍るような戦慄がはしり、その衝撃は増幅されるのである。
「生きること」を「陰陽」の「陽」という概念に対応させた場合、「陰」に対応するものは「死」である。本作品はまさしく、「影」によって現代に潜む「陰」を表象した作品である。
<参考文献>
1.河合隼雄『河合隼雄著作集第13巻 生きることと死ぬこと』岩波書店、1994年
2.ロザリンド・クラウス「指標論 パート1」、『オリジナリティと反復』小西信之訳、リプロポート、1994年
3.ロザリンド・クラウス「指標論 パート2」、『オリジナリティと反復』小西信之訳、リプロポート、1994年
4.名古屋市美術館、Bunkamura ザ・ミュージアム、兵庫県立美術館、中日新聞社編、『だまし絵 VISUAL DECEPTION』中日新聞社、2009年
5.マイケル・フリード「芸術と客体性」川田都樹子、藤枝晃雄訳、『モダニズムのハード・コア』浅田彰、岡崎乾二郎、松浦寿夫編、太田出版、1995年
6.ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクションⅠ』久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年
7.山折哲雄『17歳からの死生観 高校生との問答集』毎日新聞社、2010年
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太田晶