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展示会

「解剖と変容:プルニー&ゼマーンコヴァーチェコ、アール・ブリュットの巨匠」
太田 晶

「解剖と変容:プルニー&ゼマーンコヴァーチェコ、アール・ブリュットの巨匠」(兵庫県立美術館、2月4日~3月25日)は、絵を描くということに対して、さらには人間社会の中で我々が生きるということに対して、大きな「問い」を投げかける展示であった。
はじめに「アール・ブリュット」とは、「専門的な美術教育を受けていない作り手が、芸術文化や社会から距離を置きながら制作した作品」と本展では定義されている。メインに扱われたルボシュ・プルニー(1961-)の作品とアンナ・ゼマーンコヴァー(1908-86)の作品とから瞬時に受ける印象は、180度相違するものと言ってよい。プルニーの作品は、解剖への強い関心から身体をモチーフとしており、身体を切断して再構成する冷徹さと、その行為の中に秘める或種の危うさとを併せ持っている。一方、ゼマーンコヴァーの作品は、原始生物を想起させる図像が生命力に満ち溢れており、優しく柔和な雰囲気で会場の空気を包み込んでいた。
このように二人の作品は対照的であるのだが、その根底には共通するものが流れている。それは「絵を描くことに対する純真さ」である。その純真さは、心にすっと分け入り鑑賞者を魅了する。
多くの作家は、人に見せること、人に見られることを前提に絵を描く。それに対して、アール・ブリュットの作家は、そのような他者が介在する相対的な動機ではなく、「ただ描きたいから」という、自身の中から湧き出てくる本能的な絶対的動機のみをもって絵を描いている。
我々人間は、我々自身が作り上げた社会の中で生きている。社会という概念は、他者が存在して初めて成立するもので、社会の中で生きる我々は、他者との関係性の上に自己が存在する。そういった環境において、我々は他者からの視線や評価を過剰に意識してしまうという事態に陥りやすい。しかしながら、プルニーやゼマーンコヴァーの作品と対峙すると、人間社会で生きていくには、「皆にこのように思われたい」というような相対的な欲求ではなくて、「私はこのような人間でありたい」という絶対的な意思を持つことの重要性を再認識させてくれる。
「私はこのような人間でありたい」。そんなシンプルで純粋な生き方を獲得することによって初めて解放される、人間が生まれながらにして持っている根源的な強さが、いかに素晴らしく貴いものであるかということを改めて感じさせてくれる展示であった。

Okinawa Art Station
太田晶